「いつも」と「毎日」の儚さ
なんという悲しさでしょうか…
私が小さいころからフリーアナウンサーとして活躍されていた小林麻央さんが遠い所へ旅立たれてしまったというニュースは、非常に悲しく衝撃的な話でした。
彼女の境遇は途中まで非常に華々しく感じられました。見事で、私たち一般人にとってはうらやましい限りであったスペックを持っていた一方で、歌舞伎役者の妻として、夫の不祥事が起きたらマスコミに対応しなければならない、常に「見られている」存在であり、非常に険しい道を歩んでいたようにも見えました。
私などが想像を働かせるなど、本当に無粋なことであるし、同情したり、「かわいそう」を連呼したりするのも筋違いにも甚だしいです。
私がただひたすらに感じたことは「生きることの虚しさ」です。
虚しさともいうのでしょうか、ここまで闘病中にも注目されていてとても身近に感じていて、それでいて、どこかで「まだ若いから大丈夫」だなんて私たち遠い人間は考えていました。が、がんという病気がこんなにも一瞬にこんな若くて美しくて素敵な命を奪ってしまうのか、と、なぜ彼女がなくならなければいけなかったのかと。
「仕方がない」と言ったらそれまでだし、どうしようもないことであった、と言われればそれまでなのかもしれません。
最近読んだ本で「マチネの終わりに」という本があります。
ジャーナリストであるヒロインが、テロによって身近な人々が命を奪われることに「なぜ自分が生き残ってしまったのか」と自問自答するシーンがあります。また、「自分の生きる意味」を深く問いかけるシーンが多数あります。私はその部分を読みながら彼女に感情移入ができない気持ちでありました。そのような経験がないからですし、「フィクション」であると高をくくっていました。なにより、「生の儚さ」を感じる瞬間が幸いにも私には少なかったです。
しかし、今回のことを受けて、少しわかった気がしました。
あんなに素晴らしい女性が34年しか生きられないなんてこと…
そう考えるたびに、「運命」だなんていう嘘くさい二文字が頭をよぎってしまいますね、そんなもの壊してしまいたいですしね。
「いつも」「毎日」が今の私たちの生活では保障されているように感じられます。
「毎日学校に」
「いつもの友達とご飯をたべる」
「毎日お母さんに怒られる」
いくらだってあります。しかし、その日常性が突然失われることがあるかもしれない。実はその「毎日」「いつも」という言葉には「絶対」という裏打ちがなされていないのです。不思議です。私たちの考える「毎日」や「いつも」は絶対的ではないのです。
そのことに気づけている人が世の中に何人いるのでしょうか。
「今」を大切に。
という言葉の重みが痛く私の心を揺さぶります。
一瞬だって後悔したくないし、いつだって大切な人には感謝を忘れたくないと思いました。「毎日」が失われた日のことを考えるだけで涙があふれてきます。
逆に今苦しい人たちも世の中にたくさんいます。
私もよく自分で自分の首を絞めて苦しくなることがたくさんあります。長く続くこともよくあります。そのときに
「毎日が苦しい」
「いつまでもこんな日が続くのか」
なんて思ってしまいますが、
苦しい日々が「いつまでも」続くという絶対性もまたないのです。悲観的な人(特に私)なんかが陥りやすいただの幻想です。
ヒトの人生に「毎日」も「いつも」もありません。
そこがおもしろくもあり、悲しく苦しいところでもあります。
人の悲しみに触れると伝染します。それにより、さらにより大きな悲しみを呼び起こすことになってしまいますが、自分は自分なりに「今」を生きていきたいと強く感じました。
彼女のことは一生忘れません。
私たち遠い大衆は、卑俗な一部のマスコミに惑わされることなく、自分の意志で考えていくことで十分の供養となるでしょう。
自分の人生を生きましょう。
おわり。